独立の経緯〜原点と原動力〜

原点と原動力

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私がなぜ独立し今の活動を行っているのか。その理由は私の経歴と深い関わりがあります。そのため、私の経歴をお伝えすることで「活動の原点」、そして「私自身のこと」を知って頂けるのではと考えました。脚色は一切ありません。ありのままの私と事実そのままです。正直恥ずかしさもありますが、本音が伝わればとの想いで記しました。ちょっと長くなりますが、お付き合い頂けましたら幸いです。

 

布石

私は18年間の社会人生活を経て42歳の時(2018年)に独立しました。独立というと「入念な準備をする」、「行計画的に行う」、「能力が高い人がやること」と思っていましたが、私の独立はそれとは異なるものでした。

 

20代半ば頃から「年齢に関係なく働き続けたい」、「培った経験を活かして定年後にコンサルができれば良いな」という目標を持ってはいましたが、まさか40代で独立するとは思っておらず全くの想定外でした。

 

「石橋を叩いて壊してしまう」ほどの慎重さ。無謀なことはやらない性格。そんな私が独立したことに対して、家族、友人は驚いていましたが、一番驚いたのは自分自身でした。

 

独立した当時は「何とかなる」という開き直りと勢いで明確な根拠はありませんでした。しかし、振り返ると「独立する布石はあった」と感じ、今では必然だったと思うようになりました。

 

原点

私は2000年に新卒でMR(医薬情報担当者)という、医師に医薬品を処方してもらう営業職に就きました。当初は営業と思っていなかったのですが、実際は数字で評価されるバリバリの営業です。

 

内向的で甘えベタ、そして頑固という誰から見ても営業に不向きな私は、職場に仕事に馴染めず悩みました。悩みは続き、1年目の終わり頃には診療内科を受診していました。しかしこれが転換期となり好転していきました。何が切っ掛けになるかわからないもの。その後何とか成果を出せるようになり、職場に仕事に慣れ少しずつ自信もついていきました。

 

しかし、やりがいを感じない、楽しくない。会社の人は良い人で環境も良かったと思います。給料も大きな不満はありませんでした。ただ、この仕事を5年、10年とやっていくイメージが全く持てない。MRに未来を感じることもできない。営業の悩みの次はそんなモヤモヤを抱えるようになりました。厄介な感情であり性格ですが、今思うとこれが私の原点であり源なのだと思います。

 

そんな中、本屋で『中小企業診断士』という資格を見かけ本を手に取りました。「経営の全般を学べる」というフレーズに惹かれ、予備校に通い勉強を始めました。2004年頃だったと思います。最初は資格を取るというよりも「知識やスキルを身に付けたい」という気持ちが強かったのですが、勉強を進めるうちに資格を取りたいという欲が出てきました。

 

週末は予備校に通い、日々の勉強の継続。趣味のボクシングも休会しました。自分の意思で始めたものは楽しく、続けることができました。しかしこの資格、そんなに甘くはありません。合格率5%程という狭き門。結果は1次試験を突破できず終了しました。

 

ちなみにこの試験、試験は年に1回(夏頃)。1次試験(マーク式)→2次試験(記述式)→面接まで続きます。面接に通ったら実務補修を受けるか実務に従事し(15日間以上)、晴れて登録されるという中々ハードルが高い資格です。

 

試験は不合格でしたが、ここで勉強したことはその後の基礎になり大きな財産になりました。特に大きかったのは、診断士の勉強が切っ掛けで経営コンサルタントに興味を持ったことです。

 

勉強を進めるにつれて「実務をやりたい」、「実際の現場で経験を積みたい」と思うようになり、実際に経営コンサルタントに転職をしました。業界と職種を変えることはハードルが高く苦戦しましたが、何とか内資の経営コンサルティング会社に入ることができました。この時描いていたのは、『経営者と二人三脚で仕事をする』というものでした(これが今の原型になっています)。

 

また、診断士の勉強をする中で今の基礎『コーチング』に出会いました。企業経営理論という科目の中にお客さんとのコミュニケーション事例があり、「双方向的な会話」が大切で「コーチング」が有効である、という記載があった記憶があります。コーチングを勉強する訳ではないためコーチングの詳細はまだ知りませんでしたが、『自分がやって欲しくてやりたいのはこういうことかも』と感じていました。この時からコーチングに興味を持つようになりました。

 

一つの勉強が切っ掛けになりその後の自分に影響を与えていく。資格を取れたら最高ですが、取れなくても得るものは沢山ある。やったことに無駄はない。当時はそう思っていませんでしたが今はそう思えます。(ちなみに診断士資格取得は諦めていないです)。

 

転職

しかし会社は入ってみないとわからないもの。理不尽の雨に襲われます。今は亡き父が言っていました。『石の上にも3年』と。口数が少ない父。私が大学を卒業して就職する際に伝えてくれた唯一の言葉です。転職の時もその言葉は頭に残っていました。

 

初めての転職は2006年でした。右も左もわからない。会社はかなり異色。世間の常識は社内では非常識。理不尽なことがあっても父の言葉が頭をよぎり耐えていました。未経験の私。3年間は我慢、修行だと。

 

しかし、ある時決定的なことが起こります。1年を経たずにチーム異動を命じられます。私の今後のキャリアを考えての親心ということでした。所属していたチームは人が多い割には仕事が少ない。そのチームよりも仕事が多く人手が足りない別のチームで仕事をやった方がキャリアアップにもつながる。別のチームに異動した方が私のためでもある。だから異動して欲しい、と。

 

チームが変われば仕事内容は全く異なります。私は当時の仕事を続けたいと伝えました。未熟ですがプライドもあります。大型のプロジェクトの受注に関わり受注賞を受賞した。営業セミナーで高評価も頂いた。コンサル契約をしてくれそうなお客さんもいる。未だ1年も経過していない中での異動は納得いくものではありませんでした。しかし、チーム異動は私に選択権はなく「命令」であり、拒否できるものではありませんでした。

 

さらにその直後、所属していたチームに新しく入社した人が入って来ました。「人数が多く人余り」と言っていたことに矛盾を感じました。新しい人が入って来る、その影響で私が異動する。この流れを見た時、「私は不要なんだ」と感じました。そうでなかったとしても、その時の私はそう感じてしまいました。そしてその瞬間、私の中にこれまで溜まっていたものがせきを切ったように吹き出してきました。父の言葉に対する後ろめたさはありましたが、それ以上に強い感情に突き動かされました。

 

これを切っ掛けに転職活動を始め、2回目の転職をします。しかし、この転職が今後自分で自分の首をじわじわと絞めることになるとは、この時は思いもしませんでした。

 

※転職や転職先での仕事については長くなるため、改めて別記事でお伝えする予定です。現在準備中のため少々お待ちください。

 

ライスワークとライフワーク

2006年〜2018年の間、コンサル会社、医療機器メーカー、医療系広告代理店、医療ベンチャーなど合計6回転職をしました。やりたいことは『経営コンサルタント』と決まっていたのですが、コンサル会社での仕事がイメージとかけ離れ過ぎていたことと、ある理由(詳細は追って別記事に記載予定)から転職を急ぐあまり医療業界に戻りました。

 

そこから歯車が嚙み合わなくなり、「ライフワーク」を求めていた私が一番やりたくないと思っていた「ライスワーク」に徐々に陥っていきます。転職を重ねれば重ねるほど、アリ地獄のように引きずり込まれていきました。それでも仕事にやりがいを求めて諦めず天職を探し続けました。その間、結婚し家を建てるなど環境も変わっていきました。しかし理想と現実の間で揺れ続け、モヤモヤした気持ちが晴れることはありませんでした。

 

ライスワークに陥る私の転職ですが、その中で様々な経験をします。100時間/月を超えるサービス残業、パワハラ(社内・社外)、評価操作、モラハラ社員、合併、同僚のリストラなど、会社の規模に関係なく色々なことがありました。もちろん、しんどいだけではなく楽しいこともありましたが、『反面教師』としての学びの方が多かった。それが本音です。

 

その中で最も大きな問題と感じたものがあります。それは『人を活かせていない』ということです。内資、外資、上場企業、オーナー企業、ベンチャー企業など様々な環境に身を置いてきました。環境は異なりますが、その点は共通点していました。これはとても大きな損失であり、会社と個人にとってお互いに不幸なことです。

 

ここが好転すれば、個人、会社、社会、日本が良くなる、私はそう考えています。人を活かすコーチングやサポートはこのような状況において必要であり重要だと思っています。この経験から、コーチングや個人を活かすことについてより関心が高まっていきました。

 

転職以外の天職探し活動では、興味のあるセミナーに手あたり次第参加する、個別コンサルを受ける、高額塾に通う、興味ある書籍を読み漁るなど、お金と時間を投資しました。と同時に、それだけでは何かかが足りないと思い、「今後日本・世界は何を求めていくのか」、「世の中の流れはどうなるのか」という視点を持つことを意識し、予測するためのヒントや洞察力を得るために模索を始めました。

 

流れを知るには「歴史」を知ることが重要と考え、この時から「歴史」に関心を持つようになりました。受験の時は世界史を選択していましたが全く関心がありませんでした。しかし、目的が変わると関心も変わり、今では自主的に調べるようになりました。

 

そんな中とあるサイトに出会いました。偶然か必然か、このサイトとの出会いが私の気持ちを大きく揺さぶりました。それが今の『子伝(こでん)活動』に繋がっていきます。仕事とは別の、使命感というと大げさですが、『何かやらなければ』という気持ちにさせられるものに出会うことができました。

 

そしてこの間、プライベートでも大きな変化がありました。父が亡くなったことと離婚です。2013年に父が亡くなり2016年に離婚。そして2018年に家を売却。これまでの人生の中で最も激しく感情が動いた時でした。しかし人生何がどう転ぶかわからないもの。この事は今後の私にとって大きな切っ掛けになります。

 

独立

連日の残業。会社を出るのは大抵23時頃。それが日常。残業には慣れていたのですがこの時は違いました。帰宅途中の電車の乗り継ぎの時でした。『残業残業で人生の時間を費やすのか』と思うと同時に、『今の自分には何も背負うものが無い』とふと頭をよぎりました。これまでにはない感覚と発想でした。不思議なもので、大切なことは何かを考えている時ではなく、ふとした時に気付くものだなと感じました。

 

住宅ローンは完済し借金ゼロ。子供もいない。離れているけど母親も兄も健在。今は何も背負うものが無い状態。でもこれからは何が起こるかわからない。できる時にやらないと後悔する。やるなら今なんじゃないか。父の死、離婚、残業などこれまでのことはそれを気付かせるためでもあったんじゃないか。その時の私はそう解釈しました。そう思うと腰が重い私も軽くなり行動に移していました。

 

転職6回の経験、営業が苦手だった経験、天職探しで悩んだ経験、参加した数々のセミナーや書籍などで学んだこと等々。振り返ると下地がゼロではありませんでした。これまでの人生の中で得られた知識や経験は私の活動の源です。『これまでやってきたことが活きる。活かせる』、そう思うと自信になりました。偶然か必然か。振り返った時、『今のためにこれまでがある』、そう思えた時『必然』になるんだと思いました。

 

時間は命

独立をしてどうなるかは未知数です。上手くいかないかもしれない。不安もあります。慎重過ぎて、これまでは石橋を叩いて割ってきました。でも叩かずに渡ってみたら意外と行けるかもしれない。慎重な私には適当さがあって丁度良いのかもしれない。

 

最後の最後はやってみないと分からない。知識をつけてから。経験を積んでから。自信がついてから。「いつか、そのうち」は自分で決めない限り「いつか、そのうち」のままです。その反面、自分で決めれば「今すぐ」にできます。人生の折り返し、自分の意思で自分の思うようにやってみよう。辛い出来事はそのことを気付かせ背中を押してくれるものでした。決して計画的ではなかったかもしれません。しかしあの時期に独立をしたのは必然だったと思います。

 

私と同じ境遇の方、同じような思考の方、共感を頂ける方、そんな方の力になりたいと思っています。私と同じ悩みで苦しむ方を少しでもなくしたい。悩む時間をやりたいこと、楽しいことに使えるようになってもらいたい。時間は命です。「時間をかける」ということは「命を賭ける」ということ。あなたには本当に時間をかけたいことに集中して欲しい。そのために私の経験と知識が役に立てる。それが私の大きな原動力であり喜びです。

 

ここをご覧頂いたのも何かにご縁だと思います。今すぐでなくても、今後何かのお役に立てるかもしません。その時に思い出して頂けたら嬉しく思います。いつか、あなたとお会いできる時を楽しみにしています。